銭名

富本銭(ふほんせん)

製造地

日本

製造年代

天武12年(683

製作者

天武天皇

材質

価格

極めて稀少のため不明(推定\20,000,000)

写真

写真は高森町古墳出土のもの

一銭一話

 なぜこの貨幣を日本最古の貨幣だと認めない人が多いのか不思議でならない。

現在古銭界でいう貨幣とは商品との交換を目的として特定の材料で作られたものである。

そしてこの富本銭が少なくとも新和同より古いということが証明されるまでは「和同開珎」が日本最古の貨幣だとされていた。

だが、私は、その当時は無文銀銭が最古の貨幣であると考えていたので、どうも納得しがたいものがあった。

 最古の貨幣が無文銀銭でなく和同開珎であるという根拠は次のようなものであったと思う。第一に銭銘があって、貨幣として鋳造されたことが明らかであること。第二に形態が周辺国の貨幣と似ていること。第三に、大量に流通した証拠があること。この論を和同開珎と富本銭の関係にあてはめてみるとどうだろう。第一に富本銭には銭銘があり、第二に周辺国の貨幣に似ていて、少なくとも周辺国で大量に流通している貨幣を模して鋳造されたことは疑いがない。

 第三の、「大量に流通した」ということをどう解釈するか。

たしかに新和同は大量に流通した証拠がある。中国ですら発掘されるくらいである。しかし、われわれは「和同開珎は日本最古の貨幣である」という先入観から新和同の流通数や発見範囲を「大量に流通した」基準にしていなかっただろうか。たとえば古和同銅銭などは極めて現存数が少なく、かつ発見範囲も関西圏に限られている。だとすると、古和同銅銭(筆者はもし富本銭より古いとしたら銭銘は「和開銅珎」であった可能性があると考えている。和同開珎の項参照)は貨幣ではなかったのか。

第一、現存数が大量にあり広範囲に発見されることが、大量に流通したことの証拠となり、それが貨幣であることの前提になるのであれば、開基勝宝も太平元宝も、饒益神宝さえ厭勝銭になってしまう。世には発行当時大量に流通していても現存数の少ない貨幣というのは珍しくない。ある貨幣が別の貨幣に取って代わられるとき、有利な(たとえばプレミアがつくというような)条件で交換されるときは非常に多くが新貨と交換されてしまい、不利ならば退蔵されて後世に残る。また、大量に造られても、当時の経済情勢に適合しない貨幣は、流通しなかったり、鋳潰されたりして後世に残らないものもある。貿易銀や昭和年銘の新金貨などはこのことを教えてくれる。

日本における貨幣の発行は、新和同のときですらそうだったのだが、経済の成熟によるものではなく、当時の政府の恣意によるものであった。(そういう意味で自然発生した貨幣は無文銀銭であろう。)このような情勢下で、「大量に」流通することを貨幣の条件に挙げること自体が誤っているのではないだろうか。流通させる目的で作られた、というだけで十分ではないだろうか。むしろ、十分に成熟した経済を持たない日本で最初に発行される貨幣がいきなり大量に流通すると考えるほうが不自然である。

富本銭に関しての古銭界の議論をみると、どうも最初から「日本最初の貨幣は和同開珎」ということを固守するために議論が立てられているような気がしてならない。

「日本での貨幣の始まりは厭勝銭」などというのもこれで、飛鳥時代の政府関係者が開元通宝などの銅銭の本来の用途を知らなかったはずがなく、極めて不自然な議論である。そもそも、現世で用いられているものが縁起物や副葬品に転化していくのであり、なぜ貨幣だけが最初からそういう目的で作られる必要があるのか、さっぱりわからない。

少なくとも富本銭の発掘で、新和同が日本最古の貨幣でない、ということだけははっきりしたといえるだろう。

 

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